冬のチェンバロの会は、音楽の喜びをより多くの人びとと共感したいとねがい、“心からの感動を求めて”聴き手の側から音楽家の協力を得て活動している非営利の音楽愛好家のあつまりです。
 思い起こせば、阪神淡路大震災のあった1995年の秋より準備を初め、翌1996年の12月に、5日と6日は大阪のザ・フェニックスホールで、7日に神戸朝日ホールで「冬のチェンバロ<大江光の音楽と上條恒彦のうた>」の3公演を持ったのが私たちの始まりです。

 まず、大江光さんの曲がピアノをチェンバロに替えて、フルート、ヴァイオリンとともに上條さんの語りで演奏されました。そのチェンバロは上條さんが暮らす八ヶ岳山麓の町から運ばれてきたもので、清澄な冬の森の気をいっぱい連れてきてくれました。後半には、上條さんがマイクを使わない生の声で歌いました。このときの反響は、まったくの素人の手探りで、想いばかりは必死という状態で取り組んだ私たちもびっくりするような感動的なものでした。私たち自身が深く深く励ましと歓びを与えられました

 

 「最初に感じたのは、Pure でした。すべての作品を通じて、忘れてしまっている美しい心を感じました。またこのような暖かい時間を過ごさせていただきたいと思います。(神戸市・Tさん)」

 「大江光さんの『雪』の曲の演奏が始まると、涙が突然、とめどなく流れはじめました。言葉もわけもいりません。心がしっかり受けとめたのだとおもいます。震災で家族2人を失いました。この悲しみの癒しに音楽はすばらしく効きます。涙が流れる度に、傷がいやされます。ありがとうございます。またぜひ聴かせてください。必ずご連絡くださいませ。(西宮市・Mさん)」
  
 「魂に人間らしいやすらぎを与えてくれる作品に出会えたこと、嬉しくおもいます。
政治、経済,あらゆる面で腐敗しきったニュースを聞くにつけ、人間のすばらしさを忘れかけていましたので。(大阪市・Hさん)」
  
 「光さんの『夜のカプリース』と『広島のレクイエム』が特によかった。演奏者と聴衆が共鳴するとチェンバロには強弱以上の表現力があることがわかった。上條さんの骨太で温かく優しい歌に感動した。特に『いぬふぐリ』『襟裳岬』がよかった。傷ついたひとを慰め、穏やかに平和を訴える上條さんに共感する。光さんと上條さんの組み合わせがいい。(芦屋市・Y氏)」
 
 「私は難聴で今まで音楽とは殆ど“縁のない世界”におりました。10月に新しい補聴器に出会い、〈音楽の世界〉に挑戦してみることにしました。上條さんのお話は大半聞こえませんでしたが、「今日も見渡すかぎりの〜」、さとうきび畑の歌いだしのところがはっきり聴こえました。“聴こえる!“とおもった時、いままでの聴こえないことで悩んだ日々を回想しつつ嬉しさのあまり涙を流してしまいました。(Fさん)」


 ほんの一部をここに紹介させていただいた。とても悲しみが深い方で永年の悲嘆に蘇りの“光”が差し込むのを演奏を聴くうちに、自らイメージとしてつかまれるという体験をなさって、それが人生の転機となった方もおられた。見知らぬ方からのお便りは、実に数ヵ月後になっていただくものもあったのです。

 

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 たった一度きりの主催者のつもりだった私たちが、このコンサートから受けた喜び、お世話になりご縁をいただいたことへの感謝の気持ちははとても大きなものでした。   
 私たちも涙しました。大震災の翌年の暮れでしたから、それぞれのおもいがとても深く、強かったのです。とくに神戸公演では会場中がひとつになった瞬間があり、みんなが泣いていました。あらたな自分に出逢える涙でした。すばらしい刻に主体的に立ち会えて、私たちの1年余の苦労はこのときいっそう甘美な涙となって溶けていきました。
 このときの体験を基調に、音楽はもともと、もっともっと多くの方の身近に必要とされるものではないか、でもそれが私たちはじめ、いまの日本ではそうなっていないのでは?素人の私たちがかかわることで、いままで生の音楽から遠かったひとたちにももう少し近いものになればいいな、それが次の出発点でした。

 

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